史跡巡りの会「御所見北部の秋を訪ねて 用田・葛原」開催
第十七回藤沢稲門会史跡巡りは、「御所見北部の秋を訪ねて―用田・葛原」をテーマに行われた。当日は十月の十二日(土)、八月の暑さがぶり返したあの記録ずくめの酷暑の中であった。
この地域が藤沢になったのは昭和三十年の合併からで、綾瀬、海老名、寒川、茅ヶ崎と接する洪積層相模台地と高座丘陵で全般的には山林や畑を主とした土地利用がなされている。用田郵便局前で並木代表幹事と吉澤忠雄講師幹事のオリエンテーションにより史跡巡りは開始された。
最初の訪問地は用田の辻との事であったが、現在は交通の激しい道路の交差点となってしまっており、実質的には用田六寺蔵の一つ西用田の地蔵尊(一九世紀はじめの建立)が最初の訪問先であった。その後、男坂の石像群、西用田道祖神と尋ねた後、曹洞宗寿昌寺と近くの道祖神とを訪ねた。
寺は一六世紀の建立で、何度かの大地震に耐えて創建当時の姿を留めているとされる。門前には樹齢数百年の立派なイチョウが対をなして植えられていた。寺の屋根葺き材は珍しく、桟瓦(普通、寺の瓦は本瓦)に似せて銅板で作られた金属屋根であった。
次に訪れたのは、中将姫祠と呼ばれる小さな祠だった。中将姫は奈良時代、右大臣藤原豊成公の娘だったが幼くして母を失い、継母に育てられた。其の美貌と秀でた才能を継母に嫉まれ、遂には命まで狙われ薄幸の人生を送ることとなった。十七歳で仏門に入り一千巻の写経を達成した後、百駄の蓮の茎より一夜にして一丈五尺もの曼荼羅を織り上げたとの事。グリム童話のお姫様と違い、かぼちゃの馬車も王子様も来ないまま、わずか29歳でこの世を去ったと言われる。用田には姫が馬に乗って散歩したと言われる所には「馬場」の地名が残る。
祠は杉林の中に続く一筋の小道沿いにあり、この日の酷暑の中でもひっそりと涼しく、しばしたたずんでしまったが、蚊の猛攻撃を受け、やむなく退散した。
さて、美女に心を奪われている間もなく、次なる訪問地は伊東家の大きな墓地であった。
伊東家は、鎌倉時代に伊豆の領主であったが、十六世紀に帰農した伊東孫右衛門がこの地に移住、用田村を草創したと伝えられる。代々用田の名主の一人として数えられ、用田寒川社の建立など幾多の偉業を残した。
その屋敷は「東屋南流」の長者の家相に則って建てられていた。伊東家の本家は大正時代に人手に渡り、現在は茨城県座間市の日動美術館に移築され「春風萬里荘」として残っている。墓地はかつての本家を見おろす南斜面に位置取りされ、照葉樹と思われる天然林に囲まれ、約三百基の墓標が並んでいる。訪れて見ると樹林に囲まれてはいるものの、それにしても暗い。なんと南側約二~三十メートルの所に新幹線の高架が走っているのだ。樹林と新幹線とで墓は四面囲まれてしまっているのであった。新幹線の敷地も当然伊東家の田畑を横切って敷設されている。誰でもこの計画には反対しただろうに、本家が人手に渡るというのは、こういうことに繋がるのかと感慨深かった。
続いて、伊東家関連の、分家により守られている稲荷社を訪れた。日蓮聖人の石像など(木造も)石塔、五輪塔が収められた小祠もある。主に明治の建立である。
伊東家の建立による用田寒川社は、十六世紀創建の用田鎮守社である。入母屋造り平入りの社殿(神社様式は不明)は、きれいな屋根が参道の正面に鎮座しており、その他の建屋も杉の人工林に囲まれた広々とした周辺の敷地に並んでいる。武田信玄と小田原北条氏との戦いの際、武田方に火を付けられた寒川神社の御霊を寒川社は受け入れたとういう経緯も伝えられている。
昼食も済み、史跡巡りも後半に入った。
さて、伊東家を離れて史跡巡りは、古墳と見られる榎塚、用田六地蔵の一つである谷戸の地蔵、用田と葛原との境に建つ下滝谷戸の道祖神と続き、葛原の曹洞宗乗福寺に至った。ここでは僧侶にお話を聞くことができた。九世紀の創建で、開祖長田氏代々の墓がある。明治に至るまでこの地で長田氏は地頭を勤め、お国代わりの無い珍しい土地とのこと。田のないこの地では、田のある土地からは嫁が取れなかったとの印象的な話が聞かれた。
乗福寺関連で、門前の道祖神、参道の石像物等を見学。この頃暑さもピークに達し、ついに30℃(東京では)を超え、そろそろ脱落者も出そうな雰囲気に。しかし一同暑さをものともせず、その後のメニューをこなした。
十七世紀に名主小泉氏の夢見で滝底から出現し、地頭長田氏を全快に導いたとされる滝の不動尊(六十年に一度の開帳)を見学したが、訪問順序としては、皇子大神のほうが先であった。出羽三山巡礼供養棟がある。
その後、こちらにも出羽三山巡礼供養塔と道祖神とを祀った塩井渕の辻、葛原親王の御座所の跡地と言われる垂木御所跡、回り舞台の神楽殿を持つ豊受大神を最後に跡地巡りを終えた。
坂口喜一郎(昭和45年建築記)