穂濤倶楽部 自動車部箱根駅伝応援心情

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私と箱根駅伝のご縁というか、話をするには、早稲田大学自動車部に触れないわけにはいきません。
今のように誰でも車が持てる時代ではなかったので、車に触れる・乗れる・運転できるということに大きな期待と夢を以て自動車部に入部しました。

1年生

免許証がないから、洗車、整備等の下働きをしながら、車の構造や整備を教えてもらった。(先輩の授業の代返もよくやらされた)、そして夏休みの軽井沢の合宿所のグランドで車の運転を練習した。止まる、発進するのくりかえし(今のようにノークラッチではないので)練習中に何回エンストしたかによって、その回数分グランドを走らされた(私は、高校時代駅伝部だったのであまり苦にならなかったが・・)秋に鮫洲の試験場で5回試験を受けて免許証を取得した。(自動車学校がなかった)

2年生

早慶日本1周レースのインスペクターとして慶応の車に乗せられて参加(2年生でインスペクターは異例の抜擢!!とか)慶応のルール違反をチェックする役目だった。、ちなみにスポンサーは日産で、両校同じ車種で5トントラックでした。

3年生

早慶日本1周レースに選手として出場。、これは日本を6区に分ける、東京~函館~道内1周して函館~富山~下関~九州1周して下関~東京。
5トントラックで、1区を5人が交代で運転する(もちろん高速道路など無し)

4年生

主将としてこの1周レースに参加し優勝する。
そのおまけ・・NHKの人気番組“私の秘密”に出演した。たしか“私達は、トラックを運転して日本を1周するレースに優勝した”というのが秘密だったとおもう。
出演者は、ご記憶があると思うが、渡辺紳一郎・藤原あき・藤浦洸さん・ゲストはわすれた??


当時のことだからこのレースは、速さを競うのではなく、燃料経済レースで、いかに少ない燃料で走るかといことで運転技術、腕のみせどころ!というところでしょうか。流し運転はNO!!

このレースと同時に箱根駅伝の伴走というのがありました。
三年の時はサブでしたが、四年生の時はスタートからゴールまで一人で全部運転をしました。
車は、日産のジープで、ホロなし、暖房なしで、今のようにノークラではないので、全行程ほとんど2ndか3ndで時速20㎞です。
選手が走りやすいように、選手の状態に合わせる工夫が必要で、選手がへばってくると、当時の中村監督(瀬古選手を育てた)は、車の上からW大の校歌や応援歌を歌いだし、メガホンで運転をしている私の頭をポカポカなぐるのには、まいりました。

私は、高校時代駅伝の選手でした(校内マラソンで優秀なものが選ばれた)駅伝で茅ヶ崎・藤沢間を走った。そうした経験を生かし、走者の走りやすい車のスピードや位置取りなど、風向きなどを考慮しながら伴走したものです。
当時のランナーは、昼田さん(辻堂にお住いのひるたさんの兄弟)とか黒川スポーツの黒川兄弟もおられました。
走るコースですが、現在と大きく違って、大手町の読売新聞社前を出発し、国道1号線を走るわけで、戸塚の踏切を通って、藤沢橋を右折し、大磯の踏切を渡って小田原に向かったのです。
駅伝のスタートは大手町ですが、伴走の車は品川の八山橋の所で待機し、そこから伴走が始まりました。
伴走をしていて、困るのはトイレです。前日から水分を取るのを控えたりしますが、何分真冬のこと・・どこでするか・・平塚中継所を過ぎてしばらくすると、各校一せいに車のスピードを上げ、大磯の吉田邸を過ぎたところの畑で一せい放水をし、選手の来るのを待ちました。
伴走をするには、秋にコースの下見をし、道路状況のチェック等をしたりしましたし、戸塚、大磯の踏切ではいかに電車に引っかからないようにするか、選手共々工夫が要った場所です。(今ほど電車の本数はなかったが一度閉まると長かった)やはりのんびりした時代で、選手が近ずいて踏切が閉まると、踏切番が、バーをあげて選手だけをぎりぎりまで通してくれたりもしました。

箱根駅伝と云えば、私はやはり父河野謙三にふれないわけにはいきません。父は箱根駅伝がはじまった二・三回の大会に出場しています。
父は、小田原中学に在学しているころから、いつの間にか早稲田の合宿に兄一郎と参加していたようです。
本人いわく、早大に受験した記憶がないとのこと・・
そして、第三回の時、箱根の山登りで区間新を出したのが、自慢でした。そして道路が、関東大震災でつぶれコースが変わってしまったので、自分の記録は、永久不滅と自慢してご満悦でした。
当時のWの入ったえんじのランニングは、箱根芦ノ湖の箱根駅伝ミュウジアムに展示されています。
お粗末さまでした。ご清聴ありがとうございました。

河野剛雄

昭和10年(1935年)6月、東京生まれ。
間もなく平塚に転居したので平塚育ちです。小・中・高は地元の学校へ通い、昭和29年(1954年)早稲田大学教育学部に入学し昭和33年(1958年)早稲田大学を卒業。
同時に森永乳業(株)に入社。約10年勤めたのち、父が作った現在の新興海陸運輸(株)に入社。現在に至っています。

2014年3月1日